とあるフライング・スパゲッティ・モンスター教徒の信仰告白・解説付き

みなさまのご希望に従って本日これから講演するわけですが、わたしの講演をお聞きになると、きっとさまざまな意味でがっかりされることと思います。
「迫害としての政治」というのが講演のタイトルですので、わたしがいかにフライング・スパゲッティ・モンスター教徒が迫害されてきた考察するものと、無意識のうちにも期待しておられることと思います。
わたしはそうした事実認定には興味がありません。信仰と政治の関係はもっと根が深いのです。それではまずわたしどもの信仰について説明しましょう。ことの経緯は数年前にさかのぼります。


フライング・スパゲッティ・モンスターとは

2005年にアメリカのカンザス教育委員会では、公教育において進化論と同様にインテリジェント・デザイン(ID 説)の立場も教えなければいけないという決議が評決されることになっていました。
ID説というのは、自然科学における生物の進化(ダーウィンの進化論)は間違っており、人類をはるかに上回る「何らかの知性」(インテリジェント)が、世界や生物を最初から現在の姿で創造(デザイン)したのだ、という説です。
当時のブッシュ大統領もこのID説の支持者でした。
その際に「そんなものがOKなら宇宙はフライング・スパゲッティ・モンスター(FSM)によって創造されたというのもありだよね」ということで、ボビー・ヘンダーソンがFSM教を創始しました。
教育委員会のメンバーからは「神のまがい物を作るとは深刻な侮辱である」との批判もありましたが、そもそもID説の信奉者等は「何らかの知性」が「キリスト教の神」であると明言していません。「何らかの知性」が「FSM」であることを否定してはいないのです。
ですから、ブッシュ大統領を始めとしたID説の信奉者はわたしどものFSM教を学校教育に採り入れるために戦ってくれていると好意的に受け取ることもできます。やるじゃないかブッシュ。


迫害としての政治

しかし、こうした宗教的情熱を単なる悪ふざけだとして侮蔑する方も多いのです。そこで今日は全てのFSM教徒のために信仰と政治のメカニズムを解き明かし、心ない侮辱に対抗する術を教えたいと思います。
少々話が遠回りになりますが、まずはDebateについてお話します。Debateはある論題について賛成派と反対派にわかれて議論を行い、その勝敗を第三者(judge)が投票によって決めるという競技です。これは現実の政策決定を模したものです。
さてこのDebateにはPolicy DebateとValue Debateの2つがあります。Policy Debate は「X should do Y」であり、 Value Debateは「A is rather than B」であります。
このどちらがより現実の政治に近いでしょうか。
名前からするとPolicy Debate のほうかもしれません。たとえば「日本政府は郵政民営化を維持すべきだ」というように。反面、Value Debateは「カレーよりもラーメンのほうがよい」というようにあいまいな論題が多く、政治とはほど遠いように思われます。
しかし、このあいまいさこそが政治の本質なのです。Policy Debateの勝敗は行為の主体Xにとってどちらがより都合いいかで決まります。そこには明確な判断基準があるのです。しかしValue Debateにはそのような判断基準は所与のものではありません。ジャッジはいかなる基準で判断すべきかについて決まっていないのです。
ですからValue Debateでは「ある判断基準においてAがよいかBがよいか」を議論するのではなく、そもそも「ジャッジはどんな判断基準でこの議論を見ればよいのか」といった判断基準同士の競争があるのです。
「カレーよりもラーメンのほうがよい」。ふむ。で、それは誰にとっての? FSM教徒にとってはスパゲッティと同じ麺類であるラーメンのほうが価値があります。逆にインド人にとってはカレーかもしれません。価値は判断基準によって異なり、判断基準は信仰によって異なります。
Value Debateに勝つためには何よりもまずjudgeとdebaterの信仰を同じくすることがてっとり早いのです。あるいは初めからjudgeの中に同志を送り込み、異教徒を排除してしまうのもよいでしょう。このようにValue Debateとは判断基準の主導権をにぎる争いなのです。そしてこの客観的な議論の水面下で行われる、議論の判断基準をめぐる争いこそが政治なのです。
わたしはFSM教徒のみなさんにこう語らねばなりません。他人に自己の「判断基準」を強要できる権力をもて、と。そうした権力があれば、迫害から逃れることもできるはずです。ただし露骨に迫害する側に回っては他人の反感を買い、逆襲されるので注意していただきたい。Ramen

解説

敬虔なフライング・スパゲッティ・モンスター教徒はAmenではなくRamenと祈るらしい。ふざけた連中だ。だいたいこの信仰告白にしても、マックス・ウェーバー「職業としての政治」の冒頭部分のパクリである。なんとパロディ精神豊富なことか。
さて、解説だ。本来、政治における議論というものは価値観の異なる者同士の意見調整として機能する。いや、そのように機能すべきとさえ言えるだろう。しかし、このFSM教徒は、自らの信仰を曲げる気がまったくないので、議論も自分たちの信仰を守るための手段としてしか見ていない。こういう連中が跋扈しているかぎり、政治は何をも決定できずに、ありとあらゆる争点が先送りにされるだろう。
ウェーバーは、こういう信条倫理を批判した。たしかに敬虔な信者は、彼らの道徳律に従っているという点では誠実である。しかし、彼らの勝手気ままな善のために、他者の善が傷つけられるという問題がある。こうした現実の帰結に対して冷静に向き合い、その結果を少しでもよいものにしようと責任を負う人間が、政治を行うべきである。つまり、信条倫理でなく責任倫理をもて、とウェーバーは未来の政治家に向けて語ったのだ。
とはいえ、責任倫理には欠点がある。現実の結果に対して心底責任を感じ、少しでも「よい」結果をもたらそうと努力する者、彼は一体どのようにして「よい」結果と「悪い」結果を区別するのだろうか。彼自身の価値観によってだろうか。それならば、信条倫理の持ち主と同程度の弊害を社会にもたらすだろう。いや、結果に対して責任を負い、結果を変えようとする分、たちが悪い。
では万民にとっての「よい」結果をめざせばいいのだろうか。そんなものを一個人が把握することはできるのだろうか。社会にとってこれが「よい」と主張する者は、結局のところ自分にとって都合がいい信仰を社会に押し付けてはいないだろうか。
こうした視点から、かのFSM教徒の信仰告白を読むと、なかなか味わい深いのではないか。