大きな物語の不可能性――グレッグ・イーガン「万物理論」がすごい2

〈第5回誰得賞〉受賞作の「万物理論」について解説します。前回の解説では人為的なイデオロギーによる、大きな物語の維持が不可能になっている現状を指摘しました。それに対するイーガンの解は「たとえイデオロギーにおいて僕たちが無数に分断されていても、僕たちは一つの理論に従って動く自然現象ということで共通している。たかが自然現象にすぎないからといって悲しまないでほしい。世界はまさに僕たちが観測していることで成立している。僕が、僕たちが、世界なのだ」というものでした。いやあ、要約するとまんまセカイ系ですね。さすがエヴァとオウムの年である1995年に出版されただけはある。
しかし全てを理解できる理論が発見されたところで、みんながみんな明晰になるかといったらそんなわけではありません。世の中には聡明であることよりも、とりあえず「自分が正しい」ことにしたい人たちが大勢いるのです。だから、「理解できる」条件がそろっても、あえて「理解しない」という選択を取る人もいるでしょう。
実際に作中では、万物理論によって全ての神秘が駆逐されたのを嘆いた人がたくさん出ました。自殺した人も億単位でいました。彼らにとっては、世界をありのままに「理解する」ことは苦痛で苦痛でしかたがなかったのです。なぜか。それが彼らの幻想をぶち壊すからです。
自殺しないまでも、拒絶したまま生きる人もいたでしょう。世界はアッラーの創造なのだと信じたい人は依然としていたはずです。最後の審判を待つ人、輪廻転生を確信する人もまたいたはずです。結局のところ、人為的なイデオロギーが無数に乱立する状況は変わらないのです。
そうすると、万物理論が示すような「世界の理解」も、単なる異教徒の経典でしかなくなってしまいます。たしかにそれは真実だし、明晰な思考があればそれが真実であることは理解できるのに、あえて理解しない人にとってはやはり自分たちとは異なる信仰になってしまうのです。

結局、天の光を見ようと語る人も、みなが参加できる大きな物語を提示できないのです。その光はあまりにもか細く地上に降り注いでいるため、焚火を囲う人々は目の前の炎のゆらめきから目を離せないのです。
ちなみに「銀炎」(「TAP」収録)はこうした状況に対するイーガンの怒りが込められた短編です。