天皇はなぜ生き残ったか / 本郷和人

天皇には「祭祀の王」「当為の王」「実情の王」といったさまざまな王たる性質があったがそうした要素は時代の流れにしたがって剥がれ落ちていき、最後まで残ったのが「文化の王」という要素だという。ただ、やや枝葉の議論になるが、鎌倉時代以降、幕府が「当為の王」として法による支配を実現した理由を、もともと「当為の王」であった朝廷に蓄積した知識から学習したという説明には疑問が残る。ぽっと出の武力組織が一丁前に統治をしようとするのならば「当為の王」としてふるまうことは、むしろ当然の要請だ。まさか圧政をしく暴君となるわけにもいくまい。


本郷は幕府が「当為の王」であったときに、朝廷が「実情の王」であった理由を次のように説明する。

それにしても同じ時代の統治機構が、なぜ異なるタイプの裁定を下したか。それは強制力の相違だと考える。幕府には、豊かな軍事力があった。だが朝廷は、伝統を失い、軍事力を保有できなくなった。(中略)
簡潔にまとめると、おそらく幕府は誠実な統治に覚醒し始めたのだろう、というのがわたしの答えである。無知な武士たちは朝廷に蓄積・保存された情報、理念や典籍から統治のありようを学習していく。それにつれ幕府は、明瞭な基準にしたがう理非の決定、法に則して理非を勘案する客観的な姿勢が、公平な統治に必須であることを体得していく。*1

朝廷の「当為」(建前、理念)を幕府がまねしたというわけである。しかし、もともと天皇が「当為の王」であったとき、その統治は単なる専制であり幕府がめざしたような法治主義ではなかった。天皇と幕府は同じ「当為の王」という枠組みで括ったとしてもその実態はまったく別のものなのだ。
ではなぜ同じ「当為」を振りかざしても幕府と天皇でこのような差ができるのだろうか。僕は、幕府も天皇のその初期においては「当為」を掲げ、それを全うする必要があったからだと考える。権力には大雑把に分けて2種類ある。

  1. 昔から権力をもっていたので今でも権力がある場合(既得権益
  2. その権力が政治的に支持を得ている場合(リーダーシップ、統治) 

である。天皇も幕府もその歴史の初期においては何の権威も権力も持っていなかった。そこに権力が生まれたのは2の理由により、その権力に一定の正当性があったからだ。人々はみな「当為」を望んでいる。そうした理想・理念こそが「当為」だから当たり前である。そして「当為」を振りかざす機関に人々は統治を任すようになる。
だがそのうち権力は気づく。別に「当為」に沿って行動しなくとも、この権力さえあれば好き勝手できるのではないかと。そして権力の体質は2から1へと変わる。「当為」は建前・お飾りにすぎなくなる。これが平安時代天皇が名ばかりの「当為の王」として専制をした理由であり、鎌倉時代の幕府が実態として「当為の王」であった理由である。本郷の当為・実情の二元論は、権力のこうした性質を忘れがちにさせるのであまり優れたタームとはいえない。
とはいえ、天皇が「文化の王」という考えはわかりやすい。1392年の南北朝の合一以降、天皇は1の権力も2の権力もない宙に浮いた存在となる。権力ももたずに王(皇)を名乗る存在がいつまでも生き残るというのは不思議な事態だ。おそらく、権力を持たないからこそ、権力VS権力の政治ゲームから距離をおけたのであろう。つまり俗世を超越した文化性・ホーリーっぽさが天皇を生き延びさせたのだ。これが多民族・多宗教の地域なら、そういったシンボルは時代の変わり目ごとに抹殺されるのであろうが、さいわい日本には深刻な民族対立・宗教対立がなかったため「文化の王」のポジションは安泰であった。
ただ現代においては、文化はもはや「文化たち」へと拡散しているので天皇は「文化の王」としての地位は薄れ、いてもいなくてもどうでもいいような存在になっているのだろう。

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