相対主義で注意すべきたった一つのポイント

たいていの場合、相対主義を議論に持ち込む人は別の何かを絶対視している。たとえば文学の良し悪しについて大学生が延々と居酒屋でだべっていたとしよう。それを見て隣のサラリーマン氏は思うのである。「お前らそんな下らんことで大切な学生時代を無駄にしてんじゃねえ。社会に出たらそんなことはなんの役に立たんのだよ」と。
ここでサラリーマン氏は「社会的な有用性」を絶対視し、「文学的な価値」を人それぞれの趣味にもとづく相対的なものとしている。「文学の彼岸」(文学の価値や正当性をめぐる対立の向こう側)にたったサラリーマン氏には、自分の年収が何よりも気になるところであり、そのためのスキルアップ以外は眼中にない。ドストエフスキーを読んだくらいで生産性は向上しない。カフカを批評しても人的資本は形成されない。社会的な有用性のためには小説よりも英語や法律の勉強のほうがよっぽど重要なのだ。
しかし文学青年たちも黙っていない。サラリーマン氏のせまい価値観には収まりきらないほど豊饒な価値が、文学にはあるとかたく信じているかもしれない。文学青年たちは「文学的な価値」への志向に自分の生を費やしているのであり、もはや彼らは「社会的有用性の彼岸」に立っているのかもしれない。
さて、「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら を読んだ人なら、もはやあらゆる道徳は相対化され、「善悪の彼岸」に立っていることだろう。では、あなたは善悪を相対化することで、一体何を絶対視するのだろうか?

何かを相対化することで自分に都合のいいゲームを絶対視する人たち

ある人は、権力を絶対視するだろう。ここでいう権力とはダールが定義したように「相手に、自分の働きかけがないとやらない行為をやらせること」であり、暴力である。自分の《信仰》を迫害から守るために権力を得ようとする人もいるし、ジャイアンのように無邪気に権力を楽しむ人もいる。
ある人は、富を絶対視するだろう。権力によって物事を考えると、価値の総量は決まっていてそのパイを奪い合うというゼロサムゲームに陥りやすい。そんな不毛な闘争に精を出すよりも、できるだけwin-winをめざして価値の総量を増やしたほうが全体としては生産的だ。権力を持てる側からしてみても持たざる側からの反逆の可能性を考えると、自分だけが得をする状況よりも全体のパイが増えて社会不安がなくなったほうがハッピーだろう。
ニーチェは、どうやら「健全さ」を絶対視したらしい。

ニーチェの哲学において、あらゆる価値はこの意味での「健全さ」を尺度としてその性質を判別され、その重要性を計量されます。もたもたしていたらfinalventさんに先に書かれてしまいましたが(笑)、ニーチェの言う「力への意志(権力への意志)」とは、増大しようとする唯物論的なエネルギーのことであり、それは人の生においては「生きる活力」として生成します。その意味で、ニーチェの哲学は、健全な世界認識を確立することを目標としていました。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/hiraokakimihiko/view/20100508/1273316665

これだけだとよくわからないかもしれないが、要するにニーチェは「優良」であるものが、弱者の陰湿な嫉妬によって「悪い」ものとされるのが我慢ならないのだ。そして弱者が自らを正当化するために「劣悪」なものを「善い」とするその手口を不健全だと批判するのだ。たとえば「金持ちは心が汚い」といったことはよく言われるが、こうした嫉妬をニーチェは軽蔑した。ルサンチマンだせぇと叩いた。
しかし相対主義を貫き、ありとあらゆる価値基準にとらわれることなく生きようとするのなら、「健全さ」すらも相対化しなくてはいけないだろう。

注意が必要なのは、ニーチェは究極的には既存のいかなる価値基準に従うことも拒否しているという点です。ですから、「健全さ」はニーチェの価値基準のモデルではあるものの、必ずしも既存の健全な諸価値自体が重視されていたわけではありません。それがニーチェの哲学を単純なアナーキズムから隔てている重要なポイントであり、また難解なところでもあります。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/hiraokakimihiko/view/20100509/1273409115

結局ニーチェ相対主義と「健全さ」がどのような関係にあるのか僕にはよくわからない。