この「私を殺すな」という生命・身体の不可侵性を「自分の身体は自分のものだ」というふうに言い換えて、その権利の絶対性を主張するのが自由主義(リバタリアニズム)だ。そもそもありとあらゆる権利の根拠は、「そうあって当然だ」という一人一人の直観(信仰)でしかないため、絶対的とされる権利も直観の言い換えにすぎない。
まあ、自己所有権に反対する人はまずいないので、これを暗黙の前提にすることにはあまり問題はない。さらに、「自分の身体は自分のものだ」→「だから自分の身体が労働によって得たものは自分のものだ」というふうに、自己所有権から私的財産権を導いてもまだ多くの人が納得する。
しかし、「自分の身体が労働によって得たものは自分のものだ」→「自分の身体が誰かの奴隷にならない権利を持っているのと同じように、自分の財産も誰かのものには決してならない」と飛躍すると、議論の余地がある。
「公共の福祉」のためなら私的財産権をある程度侵害されてもかまわない、という人がいるからだ。その究極のあり方が社会主義・共産主義なのだが、そこまでいかなくとも経済的自由を軽視する人は多い。とくに精神的な自由を絶対視するが経済的な自由を軽視する人は、リベラル(liberal)と呼ばれ、多数派を形成しているように思う。重要なのは、彼らは「自分の身体は自分のものだ」と「社会の幸福も大切だ」という相反する直観をもっていることだ。
リバタリアンが「諸個人の自由の尊重を正当化する根拠は何か」
1.自然権論:基本的な自由の権利、特に自己所有権は絶対である。
2.帰結主義:自由を尊重する社会の方がその結果として人々が幸福になる。
3.契約論:理性的な人々だったらリバタリアンな社会の原理に合意するはずだ。
「自分の身体は自分のものだ」VS「社会の幸福も大切だ」
自然権論者は、自己所有権とその拡大解釈である私的財産権を絶対視するが、その理由は「社会の幸福も大切だ」という直観よりも「自分の身体は自分のものだ」という直観のほうが、より重要だというものだ。ではなぜ自由のほうが社会の幸福よりも大切かというと、そういう直観をもっているからそうなのだ、としか言えない。
帰結主義者は、この点より納得のいく説明をしてくれる。「自分の身体は自分のものだ」と信じたほうが、「社会の幸福も大切だ」と信じるよりも、結果的に自由も幸福も実現されると、彼らは主張する。「社会の幸福も大切だ」だけを信じた社会主義は、個人の自由を抑圧する全体主義に陥ってしまい、結局は社会の幸福も達成できなかったという歴史があるので、この帰結主義には説得力がある。しかし、人々の幸福を価値の尺度とする功利主義の欠点として、原理的に社会主義に反対する理由はないというデメリットがある。自由主義よりも社会主義のほうが幸福だと判断してしまったら、功利主義者は何も言えない。
相対主義から見た「自由」
そもそも価値相対主義の視点から見れば、絶対的な真理などなく、全ては人々の信仰にすぎない。それが正しいとされるのは原理的に正しいからではなく、それを正しいと信じている人たちが権力によって他の人の正しさを踏み潰しているからだ。絶対的な真理なき世界は、個人の信仰同士がお互いに《真理》を偽装しあう相対的なパワーゲームである。
だから自然権論者が「自分の身体は自分のものだ」という直観を絶対視するのは、なにかの宗教の信者が教義を妄信しているのと同じだ。自然権論的自由主義と宗教の違いは、信者の数の違いでしかない。世界宗教と呼ばれるキリスト教の信者ですら20億人程度だ。だが、自由の信者は数が多すぎて、もはや普遍的な宗教になってしまった。
この自由の信者の間では、「自分の身体は自分のものだ」教はもはやマイナーな原理主義だ。「社会の幸福も大切だ」教が主流となってしまった。
このこと自体は別に悪いことではない。いや、善いも悪いもないといったほうが正確だろうか。たとえここで僕が「社会の幸福も大切だ」教を糾弾したところで、それは自由の信者Aの告白でしかない。「社会の幸福も大切だ」教が多数派の世界では、何が善くて何が悪いかを決めるのも、この宗派なのだ。この権力の前では、反対意見は「異端」だとか「反社会的」だとか「利己的」だとかレッテルを貼られて抹殺されてしまうだろう。
そうした政治的な事情を踏まえると、自然権論者のように原理的に自由を正当化する戦略は説得力に欠ける。社会の多数派である「社会の幸福も大切だ」教徒を説得できない。まだプラグマティックな説得を試みる、帰結主義者のほうが受け入れやすいだろう。