戦争を論ずる――正戦のモラル・リアリティ / マイケル・ウォルツァー

戦争はすべて「悪」だという人もいるが、現実に戦争が繰り返されている以上、そうした主張はある種の思考停止だ。戦争を「悪」というブラックボックスに詰め込んで、自分は正しいことを言ったと悦に入るだけのいやらしい行為だ。というわけでウォルツァーは戦争を道徳的に擁護できる「正しい戦争」と、そうでない「正しくない戦争」に分けて考える。そうした基準を示すことで、戦争を全面的に毛嫌いする人たちよりも、理性的に戦争を批判でき、紛争の解決に役立つのではないか、というわけだ。ウォルツァーの基準では「無辜の人々を殺すことは絶対的な悪」であり、とくに「政治共同体そのものの滅亡しかけているような緊急事態においては、他国の主権を侵害してでも武力介入しうる」という。
この「政治共同体」とは国家のことではない。国家が滅亡しても「政治共同体」は生き残ることがある。国家と異なり、「政治共同体」は決して置き換えることのできない文明のようなものであり、「それを置き換えようとすれば、人民の抹殺か生活様式の強制的な変換が必要となる」*1 ものである。この「政治共同体」が危険にさらされているというのは具体的にはナチズムのような状況であるが、ウォルツァーはそうした緊急状態においてナチスの兵士を殺すことは道徳的に許されると主張する。「政治共同体」のかけがえのなさは、一兵士の命を凌駕するのだ。
しかしこうした「政治共同体」を前面に押し出す思想は、個人主義自由主義の立場からするとむずがゆいものがある。たとえば、ある「政治共同体」でとんでもないウィルスが蔓延していて、たまたま免疫をもった特異体質のあなたを殺してワクチンをつくれば「政治共同体」が救われるという状況を想像してほしい。ウォルツァーなら、あなたを殺すことを道徳的だというだろう(たとえ、あなたが同意していなくてもだ)。しかし自己の身体を不可侵なものだとするリバタリアンの立場からすれば、それは許されない。あなたは、あなた自身にとっては至高の価値であり、他のすべてに優先するからだ。(もちろん自ら進んで「政治共同体」の犠牲になることは自由だ。)
同じように、もしもあなたが民族虐殺に関わっている兵士ならばどうだろう。どんなに人殺しがおぞましいことだと思っていても、上官の命令に逆らえば自分が殺されてしまう、そんな状況だ。あなたは自分の命と「政治共同体」を天秤にかけなければいけない。私なら、死ぬのが怖いのでおそらく自分の命をほうを選んでしまうだろう。
だから真の問題はどんな戦争なら道徳的かといったことではない。そうした観念論は国際法学者には必要かもしれないが、より現実的な設問は「道徳的に擁護できない行為をなさねばならない状況はある。ではそうした状況をいかにして未然に防げるか」ということだ。そうした意味で本書よりもハイエク「隷従への道」ムハマド・ユヌス「貧困のない世界を創る」のほうが役に立つと思う。もちろん本書もためになる論説であることは間違いないのだが。

*1:本書77p