あなたのための物語 / 長谷敏司

心を根こそぎ奪われた。すごいよ。すごすぎるよ。グレッグ・イーガン「順列都市」に匹敵する面白さ。テッド・チャンも納得の一冊のはず。もうとりあえず読んでくれ。こういう作品が出てくるからSFはやめられない。脳のニューロンの状態を記述できる言語ができて、ありとあらゆる人間の精神を記述(再生)できるようになった話です。そうしたテクノロジーと、死すべき人間が向かい合ったら、これはもう面白い話にならざるを得ない。

死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない。
夏目漱石「行人」


他人事ではありません。あなたは死ぬ。僕も死ぬ。どんなに足掻いても死ぬ。もう21世紀だっていうのに、相変わらず、死ぬ。
いやあ、しかし、なんだ。死ぬのか。これを書いている今、まったく現実感がないのだけれども、まあ、死ぬのだろう。脳細胞が壊れ、人間性の源であるニューロンの活動も停止し、感覚は遮断され、世界が終わる。ありとあらゆるホラーよりも、よほどおぞましい結末が待っている。
こんなバッド・エンドに人は耐えられない。だから狂気に飲み込まれる人がいても全然不思議じゃない。というか、むしろ狂ってしまうほうが普通だとすら思う。狂気のより洗練されたかたちとして、宗教がある。宗教は人を死の恐怖から救ってくれる。極楽や天国が死後待っていると信じきれば、死など単なる通過点にすぎなくなる。さらには積極的に自殺することも可能になるだろう。自爆テロとか集団自決といった事例が、宗教の力強さを物語っている。
だけど、なあ。そんなアホなことはしたくないっていう気持ちもまた人間にはあるのだ。まともな神経では自殺なんかしない。そしてそのまともさを自己のアイデンティティに置くのなら、狂った後の自分はもはや元の自分とはいえなくなってしまうだろう。それは狂気の奴隷だ。何ものにも縛られず、何ものからも自由でありたいと望むなら、気が違うことはできない。生身の神経で死と対峙せざるを得ない。うわあ。嫌だ。きついぞ。これは。
では、狂気の奴隷になりたくない僕のような人間には何が残されているか。2つ、方法がある。

  1. 死なない
  2. 塵理論を信じる

死なない

いや、死ぬだろ。という言葉をぐっと飲み込んでいただきたい。テクノロジーがある程度発達すれば、死なない、という選択肢も生まれるはずだ。たとえば本書では、人間の全精神活動をITPという言語によって記述すれば、その人間の全データを機械に保存できる、ということになっている。この場合の問題点は、肉体を持っているオリジナルと、機械の中のコピーが、全く同じ人間であるといえるか、というアイデンティティの問題となる。
「おれの精神はおれのもの。コピーの精神もおれのもの。」というふうに信じることができるなら、おめでとう。あなたは不死だ。
ただ、まあ、そんなにうまく割り切れないよなあ、ということは本書やグレッグ・イーガン「ぼくになることを」でも言及されている。だから、この肉体のままで死なない、という技術が必要だろう。セデーションやクライオニクスあたりの話を聞くと、なんとかなるんじゃね? という気もする。あとレイ・カーツワイルみたいにテクノロジーの発展が飛躍的に起こるシンギュラリティによって不死も可能だと説く論者もいる。
まあ、僕たちが生きている間にそこまでテクノロジーが発達するのかはわからないというのが現状だろう。これに関しては個々人ががんばってそういう社会を創り上げていくしかない。個人的には、全人生を賭ける意味はあると思っているし、現にそのために生きている。まあ弁護士志望なので、法的/金銭的なサポートぐらいしかできないけど。だから本職の科学者さんはマジがんばってください。応援します。

塵理論を信じる

グレッグ・イーガン「順列都市」には、塵理論という架空の理論が出てくる。まあ、立証可能性がゼロの理論なので、理論というよりも哲学といったほうがいいかもしれない。ネタバレになるのであまり多くは語らないが、とにかく塵理論を信じることができれば、死の恐怖は無くなるだろう。ただこれも端から見れば単なる宗教なので、あまりオススメはしない。まあ、もし僕が余命1年とかなら、とりあえずイーガンの著作を全部読み返して世界と意識のあり方についてあれこれ妄想しながら死にたいな。