オタクはすでに死んでいるのか

本当にオタクはすでに死んでいるのか、岡田斗司夫「オタクはすでに死んでいる」をもとに考察してみたい。


スクールカーストの現在

心理学者のマズローによれば、「人間は食物への欲求・安全への欲求・愛情への欲求・尊敬への欲求・自己実現への欲求といった基本的欲求をもっている。より基本的な欲求がいったん満足されると次のより高次な欲求が生まれてくる」とある。 平均的な日本人は食物への欲求と安全への欲求は満たされているし、両親がまともであれば愛情への欲求もある程度満たされているだろう。というわけで、彼(女)らは主に愛情と尊敬と自己実現の獲得のために、日々生きているわけである。愛情と尊敬を獲得することを他者承認、自己実現することを自己満足と捉えて、下記の表をみてほしい。


純粋なココロ 2.0: 愛と青春と幻想のスクールカーストMAP


非常に的を射たものだと思う。著者は、《オタク》を次のように規定している。引用しよう。

【オタク (趣味:アニメ・ゲーム等、オタク系)】
趣味を楽しんでいるが、その趣味が差異化ゲームでは社会的低位置に置かれているため、自己満足はできても他者承認は得られない人達。スクールカーストでは、カースト圏外の別枠「オタク系」として処理されることが多い。階級的には、Cランクより下。他者承認欲求が低く、他人にバカにされても劣等感を感じない者にとっては非常に居心地が良いが、そこまで「強くない」人間にとってはつらい階層。
ゆえにこの階層に所属するにも関わらず他者承認欲求が強い者は、「脱オタ」して差異化ゲームでの勝利を目指すようになる(矢印1)。しかし、この道は非常にけわしい茨の道であり、脱オタ失敗して「過剰適応者」(矢印2)「地味系」(矢印3)に移行してしまう者が後を絶たない。(中略

また、多くの脱オタ志望者にとって、最初から差異化ゲームで「上」の趣味を楽しむことは難しく、評価を得るまでに時間がかかるため、一時的に「地味系」へ移行する人間も存在する。」

あるオタクの告白

中学・高校のころの僕はどちらかといえばオタクだったと思う。読書が趣味でブログも書いていたし(今のブログとは別)、部活はディベート部というマイナーな文化系のものだった。まあ、そのディベート部が異常に強くて全国出場できるほとんど唯一の部活だったこともあり、オタクにありがちな鬱屈したルサンチマンを抱くことなく、わりと楽しい学生生活を送ることができた。(余談だが、ディベート関係の団体は日本最強の教育NPOだと思う。)


オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

岡田斗司夫の分類によれば、第一世代のオタク像が近いと思う。本が好きで好きでしかたがなく、この良さをわからない人ってかわいそう、と思っていた。今でも「グレッグ・イーガンを読まないなんて人生の何割か損している。読めばきっと面白いよ」と布教しては撃沈する日々が続いている。それはさておき、貴族主義的オタクであることはたしかだと思う。だから「SF読まないやつはダメだ!」なんて攻撃的になるエリート主義的オタクのことはよく理解できないし、「萌え」という快楽でゆるやかにつながっている第三世代のオタクのこともよくわからない。
ディープなSFオタとして言わせてもらうと、第三世代のオタクが好んで読むようなライトノベルは底が浅すぎる。中には桜坂洋「ALL YOU NEED IS KILL」冲方丁「マルドゥック・スクランブル」のような、小説としても出来がよく、SFネタもしっかりしているラノベもあるが、大半の萌えラノベは読むのが苦痛だ。だから、そうした「萌え」文化圏にどうしても打ち解けることができず、結果として細々とブログを書いていたのだった。
(あ、ちなみにハルヒの原作は面白くないが、SF入門としてはよくできていると思う。これを取っ掛かりにしてSFファンが増えてくれればいいなとこっそり祈っています。円城塔「Self‐Reference ENGINE」など、設定も近いしイイですよ。ちょっとハードですが。)

キャラとしての《オタク》

そういうわけで、僕は中身としてはガチガチのオタクなのだが、スクールカースト上の《オタク》たちとは、ちょっと立ち位置がずれていたように思う。「自己満足はできても他者承認は得られない人達」というのが《オタク》であるが、本を読むことで自己満足し、ディベート部で活躍することで他者承認をできた僕は《オタク》っぽくない。もちろん、ディベートで全国ベスト8になったなんてことは、モテ系のリア充からしたらたいしたことではなく、そうした《勝ち組》から見れば十分に《オタク》だったのかもしれない。ただ「自己満足もできず他者承認も得られない」《地味系》や、「自己満足はできないけど他者承認を得ることはできる」《過剰適応者》かというと、そうでもないような気がする。

オタクはすでに死んでいるのか

他者承認を一切必要とせず、自己満足さえあれば足りるとする「強いオタク」は今も昔もいるだろう。しかしそうした「強いオタク」は、大多数の「他者承認してほしいんだけどそこまで努力する気はない。オタク趣味で軽く自己満足を得られればそれでいいや」という「弱いオタク」に稀釈されてしまった。「強いオタク」と「弱いオタク」が入り交じった《オタク》文化圏では、かつての「強いオタク」たちが持っていた文化は途絶えてしまったかもしれない。だからどうした。いまや《オタク》という現象は、他者承認弱者たちの奴隷一揆なのだ。「強いオタク」たちの貴族的な遊びなのではなく、息苦しいスクールカーストを生き延びるための避難場所こそが《オタク》なのだ。彼ら第三世代のオタクがオタク文化を望む強さは、第一世代の「強いオタク」のそれをはるかに凌駕しているのではないだろうか。そういう意味で、《オタク》は生きている。いや、《オタク》として生き延びようとしている。