カラフル / 森絵都

死んだはずなんだけど天国で抽選に当たってしまい、もう一度下界に戻って生活しなくてはいけなくなるというストーリー。傑作すぎます。
苦境の真っ只中にある人が「死ぬほどつらい」とこぼすことがよくありますが、その人に向かって「じゃあ死ねよ」って言ってみたくなるときってありませんか? いや、そんなこと実際に口にすることは絶対にないですし、心の中で強くそう思っているわけでもないです。
ただ同情とか哀れみとかそういう良識の狭間で、「そんなに苦しいなら死ねばいいのに」という醒めた視点がぽっかりと浮かんでくるんです。現実の人間関係においては利害と感情にガチガチにからめとられているおかげで、そう自覚せずにすみますが、ことドラマや映画でそんな愚痴を延々と聞かされるシーンを想像してみて下さい。確実にウザいですし、なんではやく死なないの? バカなの? という感想も出てくるでしょう。
悪人だから人の心の痛みもわからずそんなことが言えるんだとか、いやいや逆に善人だから死ねば楽になるとアドバイスできるんだとか、そういう道徳論はどうでもいいです。重要なのは、この醒めた視点がある程度的を射ているということです。
「死ぬほどつらい」という人は結局自分でそういう絶望を作っています。「こうしなくちゃいけない」「こうすべきだ」、そういう強い自意識のもとで、自分を取り巻く苦境を作っているのです。自分でそんなことやっておきながら苦しむのは自業自得もいいところですよ。
苦しみを作っているのは自分の自意識なのに、それを「自分は悪くない」「世の中が悪いんだ」と置き換えて、自分を安全圏に置くその腐った根性が、ウザいのです。そしてこのウザさへの醒めた批判が「じゃあ死ねばいいのに」です。つまり、この暴言は「(肉体的に・物理的に)死ねばいいのに」ということではなく、「(精神的に)死ねばいいのに」ということを言っています。その苦しみをせっせと量産している自意識をぶっ殺してさっさと楽になれよ。そういうことを言っているのです。
とはいえ実際苦しんでいる人に向かって「死ねばいいのに」と言っても、絶対にうまくいきません。余計話がこじれるだけです。その一言にこめられた文脈を説明するのは非常に面倒ですし、相手のほうもただ「いやいや死んだらダメっしょ」「そうそう、生きてればいいことだってあるよー」と同情してもらいだけの「かまってちゃん」だったりするからです。
だからこそ、この物語は貴重です。「死ねばいいのに」という一言をこれ以上なくハッピーに伝えてくれます。フィクションだからこそ、誰も傷つけることなくこの箴言を伝えられたのです。
「カラフル」というタイトルは世の中にある視点・価値観の多様さを表しています。しかしそんなカラフルな世界も、ひとつの自意識を通してみると単色です。お先真っ暗だったり、灰色の青春時代だったりします。しかし見方を変え、自意識をぶっ飛ばした後には、また別の色が待っているのです。この世界のカラフルさに気づかないなんてもったいないですよ。そりゃ「(自意識が)死ねばいいのに」と思いたくもなります。


余談。「でもカラフルっていってもカバー真っ黄色じゃん!」という批判を耳にして、たしかにと思いました。しかしこうも考えられます。
天国にいる神様から見ればこの世はとてもカラフルなんだろうけど、地べたを這いずり回る人間にとっては、そんな俯瞰は無理です。結局は単色の価値観で生きていくしかない。しかし主人公は奇跡によって2つの人生を生き、自分が今まで生きてきた世界は単色だったと気づいたわけです。この世には違った考え方もあるという自覚は、価値観の多様さを実感させます。自分を客観視するこの経験は、地上をちょっとだけ上から目線で眺めるということですが、でもその視点だって世界を丸ごと俯瞰する神様からしたら単色なんでしょう。
どんなに客観的に生きているつもりでも、世界のカラフルさを自覚できても、それもまた単色の視点にすぎないよ、というメッセージがこめられているのかもしれません。あるいは、書店でこの本が他の様々なカバーに囲まれてはじめてカラフルな光景が実現する、という演出かもしれません。この本もまた、世界のカラフルさを彩る一筆、それも楽観的な黄色い一塗りなんだよ、という。