残像に口紅を / 筒井康隆

筒井康隆の最高の実験小説。世界から1文字ずつ文字が消えてゆき、その度にその文字を含む言葉・物体・概念が消えていくという空前絶後の作品です。例えば「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまいます。跡形もなく消え去ってしまうものもあれば、残像のように残ったり、他のもので代替されたりと色々です。文字が消えるたびに笑えるハプニングが起こり、ドタバタとして読んでも面白い。エンタテイメント性と文学性を高度に両立させた傑作です。感動した文学作品を1つあげろといわれたら、迷わずこれを選びます。
そしてこの小説は言葉狩りへのアンチテーゼでもあります。「差別用語」というのがあります。その言葉を使うのが差別的だとされ、使用を禁じられる言葉です。しかし「めくら」を「目の不自由な人」や「視覚障害者」へ機械的に言い換えても問題は無くならないでしょう。そもそも「めくら」という言葉に差別を感じることこそ失礼です。言葉自体は「明るさを見ることができない、だから目が暗い」、それだけの意味です。その単なる言葉に侮蔑のニュアンスを込める心・差別意識こそが糾弾されるべきであって、使う言葉をマニュアルに沿って言い直してもその差別意識は無くなりません。むしろ安易な解決策は免罪符としてしか機能せず、差別用語さえ使わなければ何をしてもいいという風潮を生むでしょう。
さてそんな世の中に向けて筒井康隆はこう言います。言葉狩り表現の自由を弾圧するものじゃないのか。なんでもかんでも差別用語にして禁止するけど、言葉はそれ自体美しくて価値のあるものじゃないか、と。*1
この小説では後半に進むにつれてどんどん使える言葉が少なくなってゆき、前半で使えた言葉の多様さ・豊かさにたいしてノスタルジーを感じます。使える文字が数個になった終盤では、まるで韻を踏んだ詩文のようになり、ほとんど意味不明の雑言によって世界は記述されます。それは言葉狩りの果てに行き着く荒廃した世界です。普段何気なく使っている言葉のなんと素晴らしいことか、その言葉とともにモノも概念も次々と失われていく世界でやっと読者は気づくのです。

*1:例えば「朝のガスパール」では新聞連載のためか「狂」の文字が使えなかったそうです。筒井康隆の作風を一言で言い表しているといっても言い過ぎではないこの一文字。はっきり言って恋愛小説で「愛」が使えないのと同じくらい致命的ですよ。どんだけ作品から味が損なわれることか、わかったもんじゃありません。