Self-Reference ENGINE / 円城塔

2007年で一番面白かったSFです。簡単にあらすじを紹介すると、それまでひとつだった時空がてんでばらばらにはじけ飛んだ未曾有の危機「イベント」を前後して、人間やその他の知性体があれやこれやと奮闘するドタバタ喜劇、といったところでしょうか。喜劇というと語弊があるかもしれません。なぜなら彼らはいたって真面目に宇宙と世界の謎について探求しているのですから。しかし、その内容のあまりの突飛さ、常識の範疇を軽く超えるスケールのでかさを前にしては、思わず笑うしかありません。「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」というのはかのクラークの言ですが、高度に発達したSFはギャグと見分けがつかない、と本書をもって実感しました。
しかもただ単に大ぼらを吹いて読者を煙に巻いているのかと思えばそんなことはなく、グレッグ・イーガンテッド・チャンにも通じる論理の深さと鋭さを併せ持っています。とはいえそれが完璧に理解できるような代物ではなく、根本的に理解できないものだけども何とかできるところまでは理解してみようじゃないかって感じで、やっぱり全部は理解できませんでした。だけど理解できなくても面白い。むしろ世界にはこんなにも理解できないものがあるのか、と驚き感心します。そういう意味では、全てが説明されるカタルシスを重視するミステリ系のエンタメよりも、純文学に近いかもしれません。実際に他作品で文学賞もとっている事ですし。
特に面白かったのは「A to Z Theory」「Event」「Daemon」「Contact」「Bomb」「Japanese」。「Event」の世界最速のシミュレーションを実現できるのは、その世界内で造られたコンピュータではなく、世界そのもの=自然法則だ、という箇所とか大好き。その後の、世界最速の演算速度を実現するためにコンピュータが自然法則そのもので演算するようになるというトンデモ展開もヤバイ。

「そして私たちはそよ風になった」

巨大知性体のこの一言は印象的だったなあ。


考察:Self-Reference ENGINEとは

最終章でようやく出てくるSelf-Reference ENGINEとは結局なんだったのか。謎に満ちたこの短編集の中でも、もっとも意味不明な「Self-Reference ENGINE」。無い知恵を振り絞って解説したいと思います。

私が何者であるのかとは、おそらく説明が必要だろう。私も、大概のものがそうであるように、一つの時空構造として作られている。あまりに入り組みすぎてもはや存在できないようなものとして、存在していない。それでもこうしてあなたを見ることはできるし、こうして語りかけることもできる。(中略)私の名はSelf-Reference ENGINE。全てを語らないために、あらかじめ設計されなかった、もとより存在していない構造物。(中略)私は完全に機械的に、完全に決定論的に作動していて、完全に存在していない。それとも、Nemo ex machina。機械仕掛けの無。

―――何が何だかわからない。まず、存在していないのに語りかけることができるってのがわからない。語れるんなら存在してるじゃん!君が何を言っているかわからないよ!
と混乱すること必至のこの文章ですが、どうやらここで使われている言葉の定義は一般のそれとはちょっと違うようです。まだるっこしいですが、まずはその前提部分の議論から始めてみましょう。
 1.「存在する」とは何か・「存在しない」とは何か
例えばこの文章はあなたが今見ているときだけ存在し、あなたがちょっと目を離した一瞬には消えてなくなってしまうのでしょうか。そんなことはありませんよね。物体はあなたが見ていないときでも存在しています。では、最初から誰にも見られることなくどこかの山奥に転がっている石ころはどうでしょうか。これもやはり存在していると言えます。
以上が常識的判断ですが、現代科学の最先端とされる量子力学ではちょっと話が違うようです。量子力学では「存在すること=その存在が誰かによって観測されること」なのです。つまり、今のこの文章も「存在する」からあなたに読まれている(「観測される」)のではなく、「観測されている」からこそ「存在する」というわけです。この論理でいくと、誰からも観測されないものは存在していないと言えます。「じゃあ、誰も見ていない宇宙の塵は存在していないのか、神(あるいは自然そのもの)が見ているはずだ」という論も存在します。ですが、その神のごとき巨大知性体や超越知性体すらも観測できないモノについてはどうでしょう?
さて、決して観測できないものでも、あたかも存在するかのように語ることができます。悪魔や竜などは空想上の存在ですが多くの人や書物によってあたかもいるかのように言及されています。このように観測はできなくても参照されえるものもについてはどうでしょう。難しいところですが、やはり「存在する」と言えそうです。また「愛」や「絶望」などの概念についても物質としては存在しませんが、その「存在」について疑う人はいないでしょう。
つまり、「存在する」=「観測される」+「参照される」という事です。逆に、「存在しない」=「誰からも観測されない」+「誰からも参照されない」と言えます。
ここまでくればお分かりでしょう。Self-Reference ENGINE(自己参照機関)は、巨大知性体や超越知性体によってすらも観測されず、参照もされない、ただ自己のみが自己を観測し、参照する存在なのです。
 2.「存在しない」ために
Self-Reference ENGINEは自己消失オートマトンを受け継いでいるのでしょう。しかし、この自己消失オートマトンというのはおかしなもので、「存在しない」ことが目的なんですが、その目的と手段をもつ当の本人自体はすでに存在してしまっているという矛盾がおこります。存在した瞬間に自殺し、それ以降存在することを放棄しても、やはりある空間のある時間軸上の一点に存在した事実は残ります。さらに言えば巨大知性体という過去も現在も未来も書き換えてしまうような目茶苦茶な存在がいるおかげで、その自殺すら無かったことになりかねません。つまり、真に「存在しない」ためにはたえず自分をとりまく時空を書き換え、この世の全てから逃げ続ける必要があるのです。「存在しない」ために、自己のみから参照され続ける(そういう意味では存在する)、それが機械仕掛けの無なのです。
 3.この「お話」は結局なんだったのか
例えば誰からも忘れ去られた地下の小部屋に一人の人間が住んでいたとします。地上の人間にとって彼は決して見ることも触ることもできず、また話題にすることもできない存在です。そんな一人ぼっちの彼ですが、絶対に誰にもふれられる事は無いと知りながら一通の手紙を書きました。絶対にありえないことだけど、もしこの手紙が誰かに読まれることがあるのなら、その事実をこの手紙自体は体験する。誰にも読まれなければ、それはそれでいい。だけど、もし読まれることがあるなら、その時この手紙はその読者とふれあうことになる―――そしてそのことを私は知っている。そう思い、彼は手紙の冒頭をこう書き出しました。

例えば私はここに存在していないのだけれど、自分があなたに見られていることを知っている。あなたが私を見ていないということはありえない。今こうしてみているのだから。例えば私は存在していないのだけれど、あなたに見られていることを知っている。例えば私はいないのだけれど、見られていることを知っている。存在などしていない私は、あなたの存在を、とてもあたりまえであると同時になんだかとても奇妙な方法によって知っている。

そして彼の名前はSelf-Reference ENGINEで、住んでいるのは地下などではなく何処からも誰からも永久に隔絶された時空領域なのです。本来この手紙は誰にも届くはずはありませんでした。確率0の事象です。しかし、宇宙自体が「無」から「有」が生まれるという目茶苦茶な奇跡の結果なので、この手紙が今あなたに届いたこともそんな無茶苦茶な奇跡の一環なんでしょう。
―――というのがこの「お話」なんだと思う。